広重『名所江戸百景』~向島石浜コース
2015年 05月 21日
今回は、東武スカイツリー線「鐘ヶ淵」駅をスタートし、隅田川を水神大橋と白鬚橋を利用して3度渡りながら、汐入公園、木母寺、隅田川神社、石浜神社を経て、白鬚橋下流西岸まで、全長約4kmのコースでした。
コース上の絵図は、次の5枚です。
第63景 綾瀬川鐘か淵
第92景 木母寺内川御前栽畑
第35景 隅田川水神の森真崎
第36景 真崎辺より水神の森内川関谷の里をみる図
第37景 墨田河橋場かわら竈
(タイトルをクリックすると、絵と説明が表示されます。)
◎ 汐入公園
汐入公園展望台から水神大橋と鐘ヶ淵方面を望んだ情景です。
1枚目の絵『第63景 綾瀬川鐘か淵』は、水神大橋よりやや上流側の場所になります。
鐘ヶ淵は現在の墨田区堤通り2丁目辺りで、綾瀬川が隅田川に注ぐ下流を言います。
当時、鐘ヶ淵は川の両岸を差していましたが、鐘淵紡績会社の工場が建設された明治20年ころには東岸を示すようになりました。
綾瀬川は千住宿と隅田村の間を流れていましたが、荒川放水路の完成(昭和5年)によって分断され、僅か500m程度の長さになりました。
綾瀬川の土手には春になるといろいろな花が咲きほこるので、多くの人が舟などで訪れていました。特に、絵の前景にある合歓の木は有名でした。
写真の中央が綾瀬川河口で、右側が墨田区堤通2丁目です。
◎ 向島地区
再度、水神大橋を渡り向島へ。隅田川と墨堤通りに挟まれた東白鬚公園のそばに木母寺があります。
この木母寺が2枚の絵『第92景 木母寺内川御前栽畑』の場所になります。当時は、木母寺は隅田川の支流・内川に入ったところにありました。
題名の「御前栽畑(おんせんざいばたけ)」 とは、四季の野菜を栽培して将軍家の御膳へ献上する畑のことを言います。絵図右に見える建物は料理屋「植半」で、人頭芋やシジミ料理が評判でした。
木母寺の起源は、平安中期に梅若丸という公家の子供が誘拐されなくなったので、これを弔う梅若塚が起源で梅若寺となりました。その後、梅柳山木母寺と呼ばれるようになりました。
明治元年幕府の庇護を失い廃寺となり、梅若神社が創建されましたが、20年後に深川の大泉寺を移転し木母寺に改称し、明治22年堂宇を再建し梅若神社は梅若堂に戻りました。
木母寺の名は、梅の字の偏「木」と旁「母」を分離して、寺の名前にしたといわれています。 白髭東地区防災拠点建設により木母寺は1976年現在地に移転しました。この位置は元・梅若堀(内川)の河口にあたります。梅若堂は移転にあたり、明治22年創建の形に修復・復元され、ガラス張りのさや堂におさまりました。
3枚目の絵『第35景 隅田川水神の森真崎』は、隅田川沿いの向島堤から向かいの西岸・真崎一帯を見下ろしたものです。前景の桜は、八代将軍吉宗が向島堤に植えさせた桜で、品川の御殿山や王子の飛鳥山と並ぶ桜の名所でした。 堤通から隅田川の対岸を現在の風景です。中央のタンクの下に石浜神社の屋根が見えます。
中景の松の木の茂る辺りに見える、隅田川の水の神を祀った神社は総鎮守といわれ、水難、火難除の神であり、船頭たちばかりでなく庶民の間でも厚い信仰を得ていました。
明治5年に隅田川神社と改称しました。
◎石浜地区
4枚目の絵『第36景 真崎辺より水神の森内川関谷の里をみる図』は、隅田川西岸、真崎稲荷神社側から北東を望んだ情景です。
ここは茶屋や料理屋が多く、豆腐田楽が有名でした。これらの店の二階からの景色を描いています。
真崎は浅草橋場の渡しから北へ1丁ほど行った川岸にあたります。石浜神社の摂社として真崎稲荷がその境内にあります。
5枚目は『第37景 墨田河橋場かわら竈』で、現在の白鬚橋西岸下流付近から描いたものです。 橋場の渡しは、現在の白鬚橋の近くにあり「白鬚の渡し」とも称され、隅田川で最も古い渡しでした。大正期に白鬚橋が架設されたため渡しは廃止されました。
今戸町には、瓦や瀬戸物を焼く竃がいくつも並びそこから煙が立ちのぼっていた。ここで焼かれた瓦は「今戸瓦」といい瀬戸物は「今戸焼」といった。
写真は、白鬚橋西岸下流から白鬚橋、向島方面を望んでいます。
ここが、今回のゴール地点でした。以上内容は、昨年6月に参加しときのものです。
コース上の絵図は、次の5枚です。
第63景 綾瀬川鐘か淵
第92景 木母寺内川御前栽畑
第35景 隅田川水神の森真崎
第36景 真崎辺より水神の森内川関谷の里をみる図
第37景 墨田河橋場かわら竈
(タイトルをクリックすると、絵と説明が表示されます。)
◎ 汐入公園
1枚目の絵『第63景 綾瀬川鐘か淵』は、水神大橋よりやや上流側の場所になります。
鐘ヶ淵は現在の墨田区堤通り2丁目辺りで、綾瀬川が隅田川に注ぐ下流を言います。
当時、鐘ヶ淵は川の両岸を差していましたが、鐘淵紡績会社の工場が建設された明治20年ころには東岸を示すようになりました。
綾瀬川は千住宿と隅田村の間を流れていましたが、荒川放水路の完成(昭和5年)によって分断され、僅か500m程度の長さになりました。
綾瀬川の土手には春になるといろいろな花が咲きほこるので、多くの人が舟などで訪れていました。特に、絵の前景にある合歓の木は有名でした。
◎ 向島地区
再度、水神大橋を渡り向島へ。隅田川と墨堤通りに挟まれた東白鬚公園のそばに木母寺があります。
この木母寺が2枚の絵『第92景 木母寺内川御前栽畑』の場所になります。当時は、木母寺は隅田川の支流・内川に入ったところにありました。
題名の「御前栽畑(おんせんざいばたけ)」 とは、四季の野菜を栽培して将軍家の御膳へ献上する畑のことを言います。絵図右に見える建物は料理屋「植半」で、人頭芋やシジミ料理が評判でした。
明治元年幕府の庇護を失い廃寺となり、梅若神社が創建されましたが、20年後に深川の大泉寺を移転し木母寺に改称し、明治22年堂宇を再建し梅若神社は梅若堂に戻りました。
木母寺の名は、梅の字の偏「木」と旁「母」を分離して、寺の名前にしたといわれています。
3枚目の絵『第35景 隅田川水神の森真崎』は、隅田川沿いの向島堤から向かいの西岸・真崎一帯を見下ろしたものです。前景の桜は、八代将軍吉宗が向島堤に植えさせた桜で、品川の御殿山や王子の飛鳥山と並ぶ桜の名所でした。
明治5年に隅田川神社と改称しました。
◎石浜地区
4枚目の絵『第36景 真崎辺より水神の森内川関谷の里をみる図』は、隅田川西岸、真崎稲荷神社側から北東を望んだ情景です。
ここは茶屋や料理屋が多く、豆腐田楽が有名でした。これらの店の二階からの景色を描いています。
真崎は浅草橋場の渡しから北へ1丁ほど行った川岸にあたります。石浜神社の摂社として真崎稲荷がその境内にあります。
5枚目は『第37景 墨田河橋場かわら竈』で、現在の白鬚橋西岸下流付近から描いたものです。
今戸町には、瓦や瀬戸物を焼く竃がいくつも並びそこから煙が立ちのぼっていた。ここで焼かれた瓦は「今戸瓦」といい瀬戸物は「今戸焼」といった。
写真は、白鬚橋西岸下流から白鬚橋、向島方面を望んでいます。
ここが、今回のゴール地点でした。以上内容は、昨年6月に参加しときのものです。
by ken201407
| 2015-05-21 14:57
| 歴史散策