広重『名所江戸百景』 神田川下流
2015年 03月 05日
今回の広重『名所江戸百景』は神田川下流コースで、水道橋から神田川沿いに神田紺屋町までの間に5枚の絵の場所を訪ねました。
① 第48景 水道橋駿河台
② 第10景 神田明神曙之景
③ 第47景 昌平橋聖堂神田川
④ 第9景 筋違内八ツ小路
⑤ 第75景 神田紺屋町
(絵のタイトルをクリックすると、絵と説明が表示されます)
〇 水道橋・上水掛樋
今回のスタート地点は水道橋です。
この橋の名前は、当初近くにあったお寺の名前から吉祥寺橋と称されていましたが、のちに橋の横にかかっていた「上水掛樋が見える橋」の意味で水道橋と呼ばれるようになりました。
吉祥寺は明暦の大火後に駒込に移転しています。
上水掛樋は明治34年(1901)に撤去されるまで健在でした。
現在は護岸の整備が進み往時を偲ぶことはできませんが、左岸に掛樋の位置を示す石碑が建っています。写真では左岸の奥、高い木が見える辺りになります。
1枚目の絵『第48景 水道橋駿河台』は、神田川沿いの「神田上水懸樋跡」碑の先にある元町公園あたりです。 ここからは、絵のように富士山を眺めることはできません。
この先順天堂大の裏手に東京都水道歴史館があります。
ここに、神田上水石碑が復元されていました。 神田上水は、井の頭池の湧水を水源とする神田川を懸樋で渡し、神田、日本橋方面の飲み水とした江戸時代の水道です。
昭和62年から平成元年にかけて発掘された一部を、館内に移築復元しています。
現在の水道橋より約120m下流に、模型のような上水掛樋かかっていました。
〇 神田聖堂、神田明神
聖橋の北詰に湯島聖堂があります。 林羅山が建てた孔子廟「先聖殿」を、五代将軍綱吉の代に「大成殿」として、この地に公的施設の湯島聖堂ができたのです。
その後、松平定信が朱子学を官学として、湯島聖堂を旗本御家人の子弟を教育する幕府直轄校(昌平坂学問所)としました。
現在は、昌平坂学問所は東京医科歯科大学の構内となり、大成殿とその付属建造物は当時の規模で残っているようです。
湯島聖堂の北側に神田明神があります。江戸の総鎮守です。
ここが2枚目の絵『第10景 神田明神曙之景』の場所です。境内の右側にある「銭形平次碑」付近から東側方面を眺めた視線で描いています。
社伝によると、現在の千代田区大手町にある将門塚周辺に創建され、元和2年(1616)に徳川幕府から現在地を拝領して鎮座されたと書かれています。
社殿前の梅の見頃ははこれからの様でした。
〇 昌平橋
橋の名前は架設された当時は「いもあらい橋」、別名「相生橋」と呼ばれていましたが、湯島聖堂を建てた際、孔子の故郷、魯の昌平郷にちなんでこの橋を「昌平橋」に改称されました。
現在の橋は昭和3年(1928)に架けられ、昭和60年(1985)に歩道部分が追加されました。
そして、ここが3枚目の絵『第47景 昌平橋聖堂神田川』の場所になります。 写真の奥に聖橋が見えます。建物の陰で聖堂は見えませんが木立の上部がかすかに見えます。
中央奥に走ってる電車は東京メトロ丸の内線です。中央の鉄橋はJR総武線、左側は中央線です。
昌平橋から下流側に見附のひとつで枡形御門である筋違御門内の広い空き地がありました。それは八ツ小路と呼ばれ、交通の要衝でした。
ここが、4枚目の絵『第9景 筋違内八ツ小路』の場所です。 写真手前は万世橋、右側中央に昌平橋が見えます。正面は旧万世橋駅、左側のビルは交通博物館の跡地利用で建ったビルです。
八ツ小路の長さは現在の昌平橋から万世橋まで、幅は神田川から旧交通博物館まであり、写真の中央部分一帯がそれに該当します。
〇 神田紺屋町
5枚目の絵『第75景 神田紺屋町』の場所はタイトル同様神田紺屋町です。
東神田は旧来の地名が残された地区です。
神田紺屋町は幕府の命令で南と北に分かれ、真中に北乗物町があります。
南北に分かれたのは、南側にまとまっていた紺屋町の一部を幕府が収用し、その代地が北乗物町の北側に与えられたためです。
神田紺屋町(南部)と北乗物町の境に藍染川が流れていましたが、明治18年(1885)頃埋め立てられ、現在は写真のように道路になっています。
今回は途中から雨が降り始めましたが、終わるまでは大雨にならずにすみました。
歩いた距離は約4キロでした。
次回は茅場町から小伝馬町までの「日本橋コース」です。
① 第48景 水道橋駿河台
② 第10景 神田明神曙之景
③ 第47景 昌平橋聖堂神田川
④ 第9景 筋違内八ツ小路
⑤ 第75景 神田紺屋町
(絵のタイトルをクリックすると、絵と説明が表示されます)
〇 水道橋・上水掛樋
この橋の名前は、当初近くにあったお寺の名前から吉祥寺橋と称されていましたが、のちに橋の横にかかっていた「上水掛樋が見える橋」の意味で水道橋と呼ばれるようになりました。
吉祥寺は明暦の大火後に駒込に移転しています。
上水掛樋は明治34年(1901)に撤去されるまで健在でした。
現在は護岸の整備が進み往時を偲ぶことはできませんが、左岸に掛樋の位置を示す石碑が建っています。写真では左岸の奥、高い木が見える辺りになります。
1枚目の絵『第48景 水道橋駿河台』は、神田川沿いの「神田上水懸樋跡」碑の先にある元町公園あたりです。
この先順天堂大の裏手に東京都水道歴史館があります。
ここに、神田上水石碑が復元されていました。
昭和62年から平成元年にかけて発掘された一部を、館内に移築復元しています。
〇 神田聖堂、神田明神
聖橋の北詰に湯島聖堂があります。
その後、松平定信が朱子学を官学として、湯島聖堂を旗本御家人の子弟を教育する幕府直轄校(昌平坂学問所)としました。
現在は、昌平坂学問所は東京医科歯科大学の構内となり、大成殿とその付属建造物は当時の規模で残っているようです。
ここが2枚目の絵『第10景 神田明神曙之景』の場所です。境内の右側にある「銭形平次碑」付近から東側方面を眺めた視線で描いています。
社伝によると、現在の千代田区大手町にある将門塚周辺に創建され、元和2年(1616)に徳川幕府から現在地を拝領して鎮座されたと書かれています。
〇 昌平橋
現在の橋は昭和3年(1928)に架けられ、昭和60年(1985)に歩道部分が追加されました。
そして、ここが3枚目の絵『第47景 昌平橋聖堂神田川』の場所になります。
中央奥に走ってる電車は東京メトロ丸の内線です。中央の鉄橋はJR総武線、左側は中央線です。
昌平橋から下流側に見附のひとつで枡形御門である筋違御門内の広い空き地がありました。それは八ツ小路と呼ばれ、交通の要衝でした。
ここが、4枚目の絵『第9景 筋違内八ツ小路』の場所です。
八ツ小路の長さは現在の昌平橋から万世橋まで、幅は神田川から旧交通博物館まであり、写真の中央部分一帯がそれに該当します。
〇 神田紺屋町
5枚目の絵『第75景 神田紺屋町』の場所はタイトル同様神田紺屋町です。
東神田は旧来の地名が残された地区です。
神田紺屋町は幕府の命令で南と北に分かれ、真中に北乗物町があります。
南北に分かれたのは、南側にまとまっていた紺屋町の一部を幕府が収用し、その代地が北乗物町の北側に与えられたためです。
神田紺屋町(南部)と北乗物町の境に藍染川が流れていましたが、明治18年(1885)頃埋め立てられ、現在は写真のように道路になっています。
今回は途中から雨が降り始めましたが、終わるまでは大雨にならずにすみました。
歩いた距離は約4キロでした。
次回は茅場町から小伝馬町までの「日本橋コース」です。
by ken201407
| 2015-03-05 10:00
| 歴史散策