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鬼平を歩く~『礼金二百両』より広尾から新橋

 今回は、昨年8月31日ホームページにアップしたものです。

 「礼金二百両」は、文庫第六巻に所収されています。
 この物語では、探索にお金がかかり、その遣り繰りの苦労が描かれています。

 舞台は、現在の渋谷区恵比寿2丁目、品川区上大崎1丁目、港区新橋3丁目を中心に展開していきます。渋谷、品川、港の三区にまたがりますが、区界に近いため、距離的には至近距離といえます。

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◎ あらすじ
 寛政三年の年が明け、三が日を清水門外の役宅で過ごした長谷川平蔵は、四日の午後目白台の私邸戻った。翌五日は、日ごろの疲れがたまっていたのか、夜まで寝間にいた。そこへ、役宅から与力の佐嶋忠介が駆けつけて来ます。
 二千石の大身旗本・横田大学の一人息子・千代太郎が、広尾ヶ原で誘拐され、身代金千両を要求されたうえに、家康公から拝領した家宝の「国光」の短刀も、誘拐犯から盗まれます。
 横田大学は、佐嶋忠介の叔父・谷善左衛門を通して、内々に長谷川平蔵へ探索の依頼をしたのです。
 平蔵は、事件の関係者は、屋敷内にいるとにらんで、捜査に乗り出します。
 横田家の家来・山本伊助は、以前勤めていたお屋敷がお取りつぶしになったため、妹のもよと一緒に横田家の先代に引き取られます。そして、もよが十七歳の時、先代が手を付け、妊娠させます。これを知った奥方が激怒し、わずか十両の金を渡し、もよを屋敷から追い出したのです。東遠のいる駿府で、もよは又太郎を出産しますが、十年後に病死したのです。
 このことから、山本伊助と又太郎は手を組んで、妹の恨み、母の恨みをはらさんと計画したのでした。
 この事件解決後、平蔵はお礼のしるしとして、横田大学から二百両の礼金を受け取るのでした。
 
 
① 広尾ヶ原、横田大学の下屋敷

 『 千代太郎は馬に乗り、家来・若党・小者を合わせて五名につきそわれ、麻布・広尾にある下屋敷(別邸)へ出かけた。

 当時、そのあたりは全くの江戸郊外であり、横田家の下屋敷は広尾ヶ原の南面に構えられてい、

(中略)

 愛宕下の本邸からは、それほど遠くはない。広尾ヶ原・東面の道へ一行がさしかかったとき、午後の陽ざしはまだ明るかった。

 そこで、襲われたのである。 
 
 千代太郎は、別邸にいる祖母・芳野に会いに行く途中、誘拐犯グループに襲われたのです。

 鼠色の布で顔を隠した浪人者が三人で、供の四人を斬り倒し、山本伊助に書状を渡し解放するのです。

 

 『 「広尾ヶ原は一に土筆ヶ岡ともよばれ、摘草および虫の名所なり、また枯野をもって知らる。いま尚、流々原野を縫うの景趣を存じ、古き武蔵野をほうふつせしむ 」

 などと、むかしの本に記されてあるように、現代の景観からは想像もつかぬひなびた土地であった。 

 と、原作に広尾ヶ原について書かれています。


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 広尾ヶ原は、現在の渋谷区恵比寿二丁目一帯にあたります。

 上の写真は、横田家下屋敷があった辺りで、恵比寿二丁目南側の社会教育館前交差点です。

 下の写真は、千代太郎が誘拐された広尾ヶ原・東道に相当する場所の、恵比寿二丁目東側の外苑西通りで、正面の白いビルは都立広尾病院です。

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② 愛宕下・横田大学の上屋敷

 『 「ただちに金千両をととのえ、屋敷内の榎の大木のあたまへ白と赤の布をむすびつけ吹きながしにせよ。その日時は六日の未ノ刻(午後二時)から申ノ刻(四時)までの間にすること。・・・」

(中略)

 「尚、当方は御家宝の国光の一刀をもお預かりしている。なればこそ、くれぐれもあわてふためき、さわがれぬよう。・・・」 

 千代太郎の供で、一人生き残った中年の家来山本伊助が持ち帰った書状に、こう書かれていたのでした。

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 愛宕下の上屋敷は、現在の港区新橋3丁目にあたります。

 写真は新橋3丁目交番前の交差点です。ここは、愛宕神社から、徒歩で10分程度のところで、一帯は大名旗本の屋敷街でした。

 
 
③ 佐久間小路
 『 去年の十二月十日の午後に、主人の用事で外出した山本伊助が、佐久間小路を歩いていると、

 「もし、山本伊助さまでは?」

と、若い男に呼びとめられた。

 これが、又太郎だったのである。

 妹に生きうつしの顔を見て、伊助は

(中略)

 日をあらためて二人は会った。 

 そこで、又太郎が犯行の相談を持ちかけたのである。

 山本伊助が、甥の頼みを聞き入れたのは、やはり妹のうらみを、

 (妹に代わって、はらしてやろう)

 と、おもったからにほかならぬ。 』

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 佐久間小路は、現在の新橋烏森通になります。

 この通り沿いの新橋駅寄りに「烏森神社」があります。

 上の写真は新橋烏森通で、下の写真は烏森神社です。

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④ 白金村の増上寺下屋敷

 『 「合図の吹きながしを見た。金千両を駕籠へつみ、用人、堀内惣兵衛殿ひとりがつきそい、明朝、明け六ツに、白金村増上寺下屋敷の南塀外まではこんでもらいたい。そこで金と引き換えに千代太郎殿と国光の刀をお渡しする。・・・」 

 広尾の別邸を出て愛宕下の本邸に帰った山本伊助が、旅僧から預かったといい、横田大学に渡した手紙には、こう書かれていた。

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 増上寺の子院の七ヶ寺が、明暦の大火後、江戸市街の大改修のため麻布へ移転する。その後、再度上大崎村へ移転する。

 現在は、九ヶ寺となり「増上寺子院群」と呼ばれています。

 この場所は、現在の品川区上大崎1丁目になります。

 写真は、子院群一帯の西側にある清岸寺の山門と塀です。

 
 
⑤ 今里村の荒れ寺

 『 小房の粂八からの報告が入ったのは、その日の六ツ半(午後七時)ごろであった。 

 又太郎と巨漢の浪人は、あれから、白金に近い今里村の荒れ寺へ入って行った。

(中略)

 今里村というのは、現代の港区白金今里町のあたりで、当時は広尾同様に江戸の郊外であった。 』
 

 又太郎と浪人者の誘拐犯一味の隠れ家が、今里村の荒れ寺でした。ここに、横田大学の息子・千代太郎が監禁されていたのです。

 平蔵は粂八と二人で乗り込み、浪人者を斬り捨て、又太郎を取り押さえ、千代太郎を無事救出するのでした。

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 原作に書かれている港区白金今里町は、町名変更等により、現在は白金台三丁目になっています。

 上写真の中央の通りは目黒通で、その左側(南側)が白金台三丁目になります。増上寺下屋敷のある上大崎1丁目とは隣接し、一部入り組んでいます。ここらあたりは、増上寺子院群のお寺以外にもお寺が点在しています。

 
 
⑥ 芝・神明前の料理屋・弁多津

 『  佐嶋は昨夜、平蔵から指示を受けたすべての手配をすましている。これが朝までかかった。

 それから、この老練の与力は、芝・神明前の小ぢんまりとした料理屋で〔弁多津〕という店へ入って行った。ここは佐嶋がなじみの店で〔のっぺい汁〕が名物である。  』

 『 横田大学へ挨拶をし、平蔵は屋敷を去った。

 芝・神明前の料理屋〔弁多津〕の二階座敷で待っている平蔵のもとへ、佐嶋があらわれたのは、それから間もなくのことであった。

 佐嶋が、ずっしりと重い二百両の包みをさし出すと、

 「よし。これで当分は、泥棒どもをつかまえるための費用に困らぬな」

 「はい」

 「このようなことを、あえてするおれを・・・・・・おぬしのお頭を、おぬしはなんと思うな?」

 「は・・・」

 佐嶋忠介は、ついにたまりかね、両手で顔をおおった。 

 二千石の大身旗本・横田大学が、「なんとお礼を申していよいか」と平蔵の前に両手をついて、「かたちにしてあらわせねば、こころがすみ申さぬ。」と何度もたのむのでした。


 平蔵は「金二百両」を所望し、先に辞去し、神明前の弁多津で佐嶋を待つのでした。当然、金二百両の使い道については、佐嶋忠介が横田大学に申し上げたのです。

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 芝・神明前は、現在の港区芝大門1丁目にあたります。

 芝大神宮の前に芝神明商店街があります。

 写真は大門通り沿いの芝神明商店街の入口で、商店街を入って左側に、芝大神宮があります。 


 〔のっぺい汁〕について、物語には次のように書かれています。

 『 平蔵が注文しておいた熱い〔のっぺい汁〕と酒がはこばれてきた。

 大根、芋、ねぎ、しいたけなどの野菜がたっぷりと入った葛仕立ての汁へ口をつけた平蔵が、

 「うまいな」 』

  
  

 山本伊助は、旅僧から預かった手紙を横田大学に渡した後、二十年前の出来事について問われたことから、自害しようとした。廊下から走り込んだ長谷川平蔵が、山本伊助を取り押さえます。家宝の国光は、伊助の住む長屋で発見されました。 
 

 横田屋敷の奉公人が四人、犠牲になったのです。このことを含め、平蔵は佐嶋忠介に、次のように語ります。

『 「なればこそ、山本伊助をゆるすわけにはまいらぬ。又太郎は網切一味の者として始末するにしてもだ。ま、このことは、ゆるりと考えようではないか。ま、のめ。今夜はゆるりとのもうではないか。なにしろ今夜のわれら二人は大金持ちゆえなあ。あは、は、は・・・・・・」 』

  

  

 この物語の没頭で、火盗改メの役目に励めば励むほど「金が要る」とあり、

『 幕府からは四十人分の役扶持がでるけれども、とてもとても足りるものではない。

 犯罪を取り締まる役目で、しかも寸分の隙もなく事をはこぶ機動性が欠くべからず火盗改メだけに、なんといっても、こころのきいた密偵を使い、金を惜しまず、江戸の暗黒面からの情報を絶えずえておかねばならぬ。

 同じ旗本でも、火盗改方の長官をつとめるには、よほどに有福の人でないとつとめきれないといわれている。

 長谷川平蔵がこの役目に任ずる前は、家計にもかなりゆとりがあったのだけれども、現在は家につたわる刀剣や書画骨董を売り、捜査の費用にあてることもめずらしくないのである。 』

 と書かれています。

  
 このように、正面から捜査の費用について、また、事件解決で礼金を受け取るのも、この物語だけではないだろうか。

 




by ken201407 | 2017-01-24 21:04 | 鬼平犯科帳

徒然にデジカメで撮った写真を掲載します。


by ken201407
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