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広重『名所江戸百景』~旧中川コース

  今回のコースは、東京メトロ東西線南砂町駅から、富賀岡八幡宮、中川船番所跡、大島小松川公園、坂井橋を経て江東区総合区民センターまでの約5kmの行程でした。

  コース内での絵図は、次の4枚でした。
    第29景 砂むら元八まん
    第70景 中川口
    第67景 逆井のわたし
    第66景 五百羅漢さゞゐ堂
    (タイトルをクリックすると、絵と説明が表示されます。)


◎ 南砂町
  南砂町駅前に南砂三丁目公園があります。
広重『名所江戸百景』~旧中川コース_b0338976_15503698.jpg
  この公園北側入口に「砂村新田跡」の案内説明板が立っています。
  現在の南砂と東砂の一部は、砂村新田と名付けられた開拓地です。砂村新左衛門が海辺の原野と寄洲の、西は横十間川、東は中川、北は境川以内の約50万坪の広大な土地を開拓しました。
  この新田を開拓者の姓を取って砂村新田と名付けられました。
  江戸時代は、江戸への野菜供給地としての産地であり、また、福井藩、松江藩、萩藩、津山藩などの抱え屋敷がありました。


  砂町新田の鎮守として、寛文五年(1666)創建された富賀岡八幡宮が現在の南砂7丁目に祀られています。ここが、1枚目の絵『第29景 砂むら元八まん』の場所です。
広重『名所江戸百景』~旧中川コース_b0338976_1624694.jpg
  元八まんのいわれは、富岡八幡をはじめて砂村に勧請した地でしたが、寛永年間に深川に移転しました。砂村の社はそのまま残されたため村人たちは「元八幡」と呼ぶようになりました。

  江戸時代、6月1日は「お富士様」の日として詣でた富士塚は、現在も境内にあります。
広重『名所江戸百景』~旧中川コース_b0338976_1631458.jpg
  町屋では昨年の寒水でついた餅や焼豆腐を食べて祝ったそうです。


◎ 中川口
  中川は江戸川と隅田川との間を流れることから、その名前が付きました。上流は、古利根川です。
  荒川放水路の建設により、平井大橋上流部分で分断され、荒川の西側の江東区平井7丁目付近から東砂2丁目付近までの約6kmが旧中川となりました。

  中川口とは、小名木川と中川(旧中川)が交わるところを言います。
  2枚目の絵『第70景 中川口』の場所は、ここ中川口です。
  小名木川は中川口から先は船堀川となり、船堀村を経て江戸川に注いでいました。江戸から行徳まで達する重要な水路でした。
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  旧中川と荒川との間の船堀川は現在埋め立てられ、大島小松川公園(写真正面に林)になっています。荒川からは新川と名付けられています。

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  中川口には、小名木川に川船改めの船番所がありました。
  当初、萬年橋北岸に設置されたのですが、本所深川に開発を受け寛文元年(1661)に中川口に移設されました。
  現在、この地に中川船番所資料館が建っています。

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  写真は、大島小松川公園内にある「旧小松川閘門跡」です。
  荒川放水路開削の際に築造され、小名木川閘門の機能を補完していました。
  その後小名木川閘門は水門に改修され、昭和51年に小松川閘門は廃止されました。


  旧中川を中川口から上流約1kmのところに、逆井橋があります。この付近に江戸時代、亀戸村と西小松川村を結ぶ逆井の渡しがありました。
  ここが、3枚目の絵『第67景 逆井のわたし』の場所です。
  元は亀戸村と逆井村(西小松川村の北隣)を結んでいたため逆井の渡しと呼ばれていました。また、逆井の由来は、低湿地のため満潮時は水流が逆流することからとされています。

  明治12年(1879)、両村が工事費を分担して木造の橋を架け、渡しは廃止されました。
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  写真中央を流れるのが旧中川で右側が江東区亀戸9丁目、川向うが江戸川区小松川3丁目、2段ある橋の上部は首都高速7号小松川線です。


◎ 西大島
  都営新宿線西大島駅そばに江東区の総合文化センターがあります。ここに、五百羅漢寺が建っていました。4枚目の絵『第66景 五百羅漢さゞゐ堂』の場所になります。
  五百羅漢寺は元禄年間に黄檗宗の僧侶によって創建されたもので、本堂の両側に五百体を越える羅漢像が安置された羅漢堂が並んでいました。
  絵図の右側前景に見える三階建ての建物は、正式には三匝堂と称する、栄螺の形状に似た螺旋状のスロープがあったことから栄螺堂(さゞゐ堂)と俗称されていました。
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  写真は、総合文化センターから絵図と同じ方角を望んだ情景です。中央のビルは、墨東病院です。

  五百羅漢像は、松雲禅師豊前国羅漢寺(現・大分県中津市本耶馬溪町跡田)の石造を観て、元禄4年(1691)浅草寺境内の仮屋で彫り始め、桂昌院が施主となったのをはじめ諸侯からの寄進も増え、等身大の羅漢像など536体が完成しました。

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  安政大地震(1855)で損傷を受け、明治以降荒廃し、明治20年(1887)本所緑町へ、さらに明治42年(1909)下目黒に移転しました。
  305体の羅漢像が現存しています。

  写真は、目黒の羅漢寺です。

  総合区民センターの前に羅漢寺がありますが、多摩の祥安寺がここに移って改称したもので、羅漢像の安置している羅漢寺とは無縁です。


  このコースは昨年6月に参加したときのものです。



by ken201407 | 2015-05-26 10:35 | 歴史散策

徒然にデジカメで撮った写真を掲載します。


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