広重『名所江戸百景』めぐり~亀戸吾嬬
2015年 05月 05日
このコースは亀戸駅をスタートし、駅前の明治通りを北上、北横十間川傍の吾妻神社、ここから川沿いに横十間川の合流点・柳島橋へ、今度はここから南下し亀戸天神までの約2.5㎞と短いコースです。このコースの目玉は、亀戸天神の藤まつりに合わせた日程となっていたことでした。
このコースでの広重の絵は、次の4枚です。
第31景 吾妻の森連理の梓
第30景 亀戸梅屋舗
第32景 柳しま
第65景 亀戸天神境内
(タイトルをクリックすると、絵と説明が表示されます。)
◎ 北十間川沿い
隅田川の支流・北十間川に架かる明治通りの福神橋を渡り右側に行くと、吾妻神社の参道の入口が見えます。 写真ではわかりずらいですが、3階建ての建物と2階建て建物の間が参道です。その手前が北十間川です。
ここが、1枚目の絵『第31景 吾妻の森連理の梓』の場所になります。
現在の吾嬬神社のことを、江戸時代は「吾嬬の森」と呼んでいました。
当時は八町四方といわれるほどこんもり茂った神域でした。
境内に二股に分かれた大きな木が立っていました。この木を「連理の梓」と呼ぶ神木でした。
実際は、樟でした。
この樟は、明治43年の大洪水で枯死しました。
現在ある神木も枯れて、上の方はありません。
ここから西側に約300m行ったところが、2枚目の絵『第30景 亀戸梅屋舗』の場所です。 現在は住宅地で、梅屋敷跡の碑など何もありません。
幕末当時、江戸とその近郊で梅屋敷と称された名園は、亀戸のほかに根岸、蒲田にもありましたが、ここが有名になったのは「臥龍梅」という有名な古木があったからです。
臥龍梅とは、枝がいったん地中に潜って地上に生えだす様子から、水戸光圀公が命名しました。
享保9年(1724)、将軍吉宗が鑑賞しています。
明治43年の大洪水により、臥龍梅など梅の木が枯れ、廃園になりました。
ここから更に西側に行くと、横十間川と合流します。その合流点に柳島橋があります。ここが、3枚目の絵『第32景 柳しま』の場所です。 広重の絵では、橋の左側に赤い塀に囲まれた建物は、日蓮宗下総国真間山弘法寺の末寺で妙見山玄和院法性寺の境内にある妙見堂です。 特に、芸人たちに信仰されていました。信者として有名なのが浮世絵師の葛飾北斎です。
◎ 亀戸天神
4枚目の絵『第65景 亀戸天神境内』の場所は、題名通り亀戸天神です。 写真は、広重の絵と同じ場所から撮ったものです。
亀戸天神は、古くは亀戸天満宮などと呼ばれていました。学問の神・太宰府天満宮(福岡県)を模して、社殿、心字池、太鼓橋などが造営されました。
天満宮につきものの梅は当然この境内にも見られますが、梅よりも有名なのが藤で、江戸随一を誇っていました。
現在でも、厚く信仰され、鷽替え神事(1月24、25日)、梅まつり(2月)、藤まつり(3月)、菊まつり(10月)などの神事には多くの参詣者で賑わっています。
この日も、藤まつりの最中で、藤の花が満開を迎え、境内は賑わっていました。
◎ 亀戸七福神
亀戸には、亀戸七福神の寺社があります。
常光寺 ・・・ 寿老人
東覚寺 ・・・ 弁財天
香取神社 ・・・ 恵比寿神、大黒神
普門院 ・・・ 毘沙門天
天祖神社 ・・・ 福禄寿
龍眼寺(萩寺)・・・ 布袋尊
江戸時代の天海僧正によると「七福とは、寿命(寿老人)、有福(大黒天)、人望(福禄寿)、清廉(恵比寿)、愛敬(弁財天)、威光(毘沙門天)、大量(布袋)の七徳」のことで、七徳を実行するばたちまち「七難即滅七福即生」するといわれています。
コースの途中にある、香取神社と龍眼寺に参拝しました。
〇 香取神社
香取神社は「スポーツ振興の神」として、試合の必勝を願う参拝者が多く訪れています。
その由来は、平将門が乱をおこしたとき、追討使・俵藤太秀郷が香取神社に戦勝祈願をし、めでたく乱を平定したため、弓矢を奉納し、勝矢と命名しました。この古事により1000年を経た現在も毎年5月5日に「勝矢祭」が続けられています。また、剣豪塚原卜伝、千葉周作をはじめとする多くの武道家達が香取神社を祖神と崇めていたためです。
〇 龍眼寺
このお寺は、寺の湧水で洗顔すると目がよくなると眼病平癒の観世音として信仰を集めていました。
江戸初期に、百種類もの萩を諸国から集めて境内に植えたことから、通称「萩寺」として多くの文人墨客が訪れていました。『江戸名所図会』にも萩を愛でる人々で賑わう様子が描かれています。
◎ 北十間川からの逆さスカイツリー
柳島橋から100m先に北十間川に架かる十間橋があります。
ここから、東京スカイツリーを間近に見ることができ、また、川に映る姿が「逆さスカイツリー」として有名なスポットです。
今回のこのコースは、昨年4月に参加したものです。写真の一部はその後に撮ったものを使用しています。
今年の亀戸天神藤まつりの様子は、4月27日の「東京散歩~亀戸天神藤まつり」をご高覧ください。
このコースでの広重の絵は、次の4枚です。
第31景 吾妻の森連理の梓
第30景 亀戸梅屋舗
第32景 柳しま
第65景 亀戸天神境内
(タイトルをクリックすると、絵と説明が表示されます。)
◎ 北十間川沿い
隅田川の支流・北十間川に架かる明治通りの福神橋を渡り右側に行くと、吾妻神社の参道の入口が見えます。
ここが、1枚目の絵『第31景 吾妻の森連理の梓』の場所になります。
当時は八町四方といわれるほどこんもり茂った神域でした。
境内に二股に分かれた大きな木が立っていました。この木を「連理の梓」と呼ぶ神木でした。
実際は、樟でした。
この樟は、明治43年の大洪水で枯死しました。
現在ある神木も枯れて、上の方はありません。
ここから西側に約300m行ったところが、2枚目の絵『第30景 亀戸梅屋舗』の場所です。
幕末当時、江戸とその近郊で梅屋敷と称された名園は、亀戸のほかに根岸、蒲田にもありましたが、ここが有名になったのは「臥龍梅」という有名な古木があったからです。
臥龍梅とは、枝がいったん地中に潜って地上に生えだす様子から、水戸光圀公が命名しました。
享保9年(1724)、将軍吉宗が鑑賞しています。
明治43年の大洪水により、臥龍梅など梅の木が枯れ、廃園になりました。
ここから更に西側に行くと、横十間川と合流します。その合流点に柳島橋があります。ここが、3枚目の絵『第32景 柳しま』の場所です。
◎ 亀戸天神
4枚目の絵『第65景 亀戸天神境内』の場所は、題名通り亀戸天神です。
亀戸天神は、古くは亀戸天満宮などと呼ばれていました。学問の神・太宰府天満宮(福岡県)を模して、社殿、心字池、太鼓橋などが造営されました。
天満宮につきものの梅は当然この境内にも見られますが、梅よりも有名なのが藤で、江戸随一を誇っていました。
現在でも、厚く信仰され、鷽替え神事(1月24、25日)、梅まつり(2月)、藤まつり(3月)、菊まつり(10月)などの神事には多くの参詣者で賑わっています。
この日も、藤まつりの最中で、藤の花が満開を迎え、境内は賑わっていました。
◎ 亀戸七福神
亀戸には、亀戸七福神の寺社があります。
常光寺 ・・・ 寿老人
東覚寺 ・・・ 弁財天
香取神社 ・・・ 恵比寿神、大黒神
普門院 ・・・ 毘沙門天
天祖神社 ・・・ 福禄寿
龍眼寺(萩寺)・・・ 布袋尊
江戸時代の天海僧正によると「七福とは、寿命(寿老人)、有福(大黒天)、人望(福禄寿)、清廉(恵比寿)、愛敬(弁財天)、威光(毘沙門天)、大量(布袋)の七徳」のことで、七徳を実行するばたちまち「七難即滅七福即生」するといわれています。
コースの途中にある、香取神社と龍眼寺に参拝しました。
〇 香取神社
その由来は、平将門が乱をおこしたとき、追討使・俵藤太秀郷が香取神社に戦勝祈願をし、めでたく乱を平定したため、弓矢を奉納し、勝矢と命名しました。この古事により1000年を経た現在も毎年5月5日に「勝矢祭」が続けられています。また、剣豪塚原卜伝、千葉周作をはじめとする多くの武道家達が香取神社を祖神と崇めていたためです。
〇 龍眼寺
江戸初期に、百種類もの萩を諸国から集めて境内に植えたことから、通称「萩寺」として多くの文人墨客が訪れていました。『江戸名所図会』にも萩を愛でる人々で賑わう様子が描かれています。
◎ 北十間川からの逆さスカイツリー
ここから、東京スカイツリーを間近に見ることができ、また、川に映る姿が「逆さスカイツリー」として有名なスポットです。
今回のこのコースは、昨年4月に参加したものです。写真の一部はその後に撮ったものを使用しています。
今年の亀戸天神藤まつりの様子は、4月27日の「東京散歩~亀戸天神藤まつり」をご高覧ください。
by ken201407
| 2015-05-05 17:36
| 歴史散策