広重『名所江戸百景』~両国蔵前
2015年 04月 30日
今回は、両国・回向院を振り出しに両国橋界隈から隅田川沿いに蔵前橋、厩橋、駒形橋まで北上するコースです。
広重の絵は、次の8枚です。
第5景 両ごく回向院元柳橋
第59景 両国橋大川ばた
第98景 両国花火
第60景 浅草川大川端宮戸川
第6景 馬喰町初音の馬場
第61景 浅草川首尾の松御厩河岸
第105景 御厩河岸
第62景 駒形堂吾嬬橋
(タイトルをクリックすると、絵と説明が表示されます)
◎ 両国橋周辺
1枚目の絵は『第5景 両ごく回向院元柳橋』です。
当時の回向院表門(現在の幼稚園)から隅田川方面を眺めた光景です。 写真は、幼稚園の前から隅田川方面を観たもので、正面奥に当時の両国橋が架かっていました。
柳橋は、現在の東日本橋2丁目21番(都営地下鉄東日本橋駅付近)にあったとされ、橋のたもとに夫婦柳があったことから、名前が付きました。後に、神田川河口に新たに柳橋ができたため、元柳橋になりました。
両国橋を描いた2枚目の絵『第59景 両国橋大川ばた』は、橋を渡った両国広小路側から眺めた光景です。
隅田川は下流の方では大川と呼ばれ、両国橋より下の右岸を大川端と言っていました。
当時の両国橋は、現在の橋より約80m下流に架かっていました。隅田川に架かった橋では、千住大橋に次いで2番目の橋です。橋の名は、武蔵国(日本橋)と下総国(本所)にまたがっていたことに由来しています。
架橋とともに、橋の東西は防災のため空き地(広小路)としました。橋の管理・運営費を賄うため、広小路に小屋や仮設建物を建て芝居・見世物や茶屋を設けたため、江戸随一の歓楽街となりました。
現在の橋は、円形バルコニー、手すりなどは相撲のイメージでデザインされ、昭和7年(1932)に竣工しました。
3枚目の絵『第98景 両国花火』も、両国橋を描いています。
花火の打ち揚げを請負ったのは、浅草横山町の鍵屋弥兵衛と両国広小路の玉屋市兵衛で、両国橋の上流を玉屋が、下流を鍵屋が担当していました。両者が花火を舟の上から打ち揚げるたびに観衆は「タマヤー」とか「カギヤー」と叫んで景気をつけました。
4枚目の絵『第60景 浅草川大川端宮戸川』は、両国橋は描かれていませんが、これも両国橋に関係しています。
両国橋の東岸橋詰に水垢離場あり、大山詣でする際にここで身を清めていました。絵の右下に、身清めした大山詣での一行が乗る船が右下に描かれています。
浅草川、大川端、宮戸川は隅田川の別称です。隅田川の浅草辺りが浅草川で、中央奥に見える吾妻橋より上流を宮戸川、両国橋から下流の右岸を大川端と呼んでいました。 写真の左側が「神田川」河口で、中央の橋はJR総武線の鉄橋です。
神田川の河口から一番目にある橋が柳橋です。 元禄6年(1693)に架けられ、「柳原堤の末にある」ことから橋名がつきました。
柳橋は周辺一帯の総称として、江戸中期のころから花街として人によく知られ、橋のほとりには舟宿がならんで賑わっていました。
5枚目は『第6景 馬喰町初音の馬場』の絵です。
描かれている場所は、両国広小路より南側にあたる、中央区日本橋馬喰町1丁目辺りです。
初音の馬場とは、関ヶ原の戦のために馬揃えをした江戸最古の旗本馬場(千代田区東神田1丁目辺り)のことで、馬喰町はその近隣であることから、また、博労が住んでいたことから付けられた名前です。 写真正面奥の建物付近が馬場があったところで、手前のビル群の左右が、絵に描かれている反物を干している場所になります。
◎ 蔵前橋~駒形橋
6枚目の絵『第61景 浅草川首尾の松御厩河岸』 の場所は、蔵前橋の下流側にあたります。 上の写真は「首尾の松」があった付近で、正面の橋は蔵前橋です。
左写真の「首尾の松」碑は、蔵前橋の西側下流側橋詰にあります。
首尾の松があった付近は、幕府の浅草御蔵があり、直轄地で収穫された米が船でここへ運び込まれていました。
首尾の松の下あたりは、夜更け忍び逢いの場として有名だったようです。
7枚目の絵は、『第105景 御厩河岸』です。
御厩河岸は、蔵前橋と厩橋の中ほどで、この付近に幕府の御厩があったため、隅田川に面する一帯を御厩河岸と呼んでいました。 現在の厩橋より100m下流に、御厩河岸と本所石原町とを結ぶ御厩渡しがありました。明治7年(1874)三好町の住民らが費用を出して木橋が架けられました。
現在の厩橋は上下流の橋の色との対比から明るい緑色に、ステンドグラスの照明もあり、都の歴史建造物に指定されています。
8枚目は、駒形橋たもとの駒形堂を画材とした『第62景 駒形堂吾嬬橋』です。
隅田川の西岸から東を望んだ図で、画面左下に駒形堂が、遠景に吾嬬橋が描かれています。 現在では、隅田川や吾嬬橋が見えない代わり東京スカイツリーが望めます。
駒形堂は古くは浅草寺の総門にありました。浅草観音を舟で参詣しに来た人々は、駒形堂の近くの河岸で舟を降り、総門を潜り、並木道を歩いて浅草寺に向かいました。
江戸の人たちは駒形堂を「駒堂」とも言って、これが訛り「こまん堂」と呼んでいました。はじめは隅田川に向いていましたが、元禄5年の再建で南向きに、のちに西向き(現在)になり180度回ったことになります。
駒形堂そばにある橋、駒形橋は堂の名前をつけています。関東大震災復興事業のひとつとして、昭和2年に架けられました。
吾妻橋は隅田川四大橋(両国橋、新大橋、永代橋)のひとつとして江戸時代に架かった最後の橋です。花川戸の町人の発起により「竹町の渡し」(別称、花戸川の渡し)に代わり安永3年(1774)に架けられました。現在の橋は、昭和6年(1931)に震災復興橋梁のひとつとして架け替えられました。塗装の色は、浅草寺の伽藍の色にあわせています。
このコースは、昨年4月に開催されたものですが、写真の一部は、その後に撮影したものを使用しています。
広重の絵は、次の8枚です。
第5景 両ごく回向院元柳橋
第59景 両国橋大川ばた
第98景 両国花火
第60景 浅草川大川端宮戸川
第6景 馬喰町初音の馬場
第61景 浅草川首尾の松御厩河岸
第105景 御厩河岸
第62景 駒形堂吾嬬橋
(タイトルをクリックすると、絵と説明が表示されます)
◎ 両国橋周辺
1枚目の絵は『第5景 両ごく回向院元柳橋』です。
当時の回向院表門(現在の幼稚園)から隅田川方面を眺めた光景です。
柳橋は、現在の東日本橋2丁目21番(都営地下鉄東日本橋駅付近)にあったとされ、橋のたもとに夫婦柳があったことから、名前が付きました。後に、神田川河口に新たに柳橋ができたため、元柳橋になりました。
両国橋を描いた2枚目の絵『第59景 両国橋大川ばた』は、橋を渡った両国広小路側から眺めた光景です。
隅田川は下流の方では大川と呼ばれ、両国橋より下の右岸を大川端と言っていました。
当時の両国橋は、現在の橋より約80m下流に架かっていました。隅田川に架かった橋では、千住大橋に次いで2番目の橋です。橋の名は、武蔵国(日本橋)と下総国(本所)にまたがっていたことに由来しています。
架橋とともに、橋の東西は防災のため空き地(広小路)としました。橋の管理・運営費を賄うため、広小路に小屋や仮設建物を建て芝居・見世物や茶屋を設けたため、江戸随一の歓楽街となりました。
3枚目の絵『第98景 両国花火』も、両国橋を描いています。
花火の打ち揚げを請負ったのは、浅草横山町の鍵屋弥兵衛と両国広小路の玉屋市兵衛で、両国橋の上流を玉屋が、下流を鍵屋が担当していました。両者が花火を舟の上から打ち揚げるたびに観衆は「タマヤー」とか「カギヤー」と叫んで景気をつけました。
4枚目の絵『第60景 浅草川大川端宮戸川』は、両国橋は描かれていませんが、これも両国橋に関係しています。
両国橋の東岸橋詰に水垢離場あり、大山詣でする際にここで身を清めていました。絵の右下に、身清めした大山詣での一行が乗る船が右下に描かれています。
浅草川、大川端、宮戸川は隅田川の別称です。隅田川の浅草辺りが浅草川で、中央奥に見える吾妻橋より上流を宮戸川、両国橋から下流の右岸を大川端と呼んでいました。
神田川の河口から一番目にある橋が柳橋です。
柳橋は周辺一帯の総称として、江戸中期のころから花街として人によく知られ、橋のほとりには舟宿がならんで賑わっていました。
5枚目は『第6景 馬喰町初音の馬場』の絵です。
描かれている場所は、両国広小路より南側にあたる、中央区日本橋馬喰町1丁目辺りです。
初音の馬場とは、関ヶ原の戦のために馬揃えをした江戸最古の旗本馬場(千代田区東神田1丁目辺り)のことで、馬喰町はその近隣であることから、また、博労が住んでいたことから付けられた名前です。
◎ 蔵前橋~駒形橋
6枚目の絵『第61景 浅草川首尾の松御厩河岸』 の場所は、蔵前橋の下流側にあたります。
左写真の「首尾の松」碑は、蔵前橋の西側下流側橋詰にあります。
首尾の松があった付近は、幕府の浅草御蔵があり、直轄地で収穫された米が船でここへ運び込まれていました。
首尾の松の下あたりは、夜更け忍び逢いの場として有名だったようです。
7枚目の絵は、『第105景 御厩河岸』です。
御厩河岸は、蔵前橋と厩橋の中ほどで、この付近に幕府の御厩があったため、隅田川に面する一帯を御厩河岸と呼んでいました。
現在の厩橋は上下流の橋の色との対比から明るい緑色に、ステンドグラスの照明もあり、都の歴史建造物に指定されています。
8枚目は、駒形橋たもとの駒形堂を画材とした『第62景 駒形堂吾嬬橋』です。
隅田川の西岸から東を望んだ図で、画面左下に駒形堂が、遠景に吾嬬橋が描かれています。
駒形堂は古くは浅草寺の総門にありました。浅草観音を舟で参詣しに来た人々は、駒形堂の近くの河岸で舟を降り、総門を潜り、並木道を歩いて浅草寺に向かいました。
江戸の人たちは駒形堂を「駒堂」とも言って、これが訛り「こまん堂」と呼んでいました。はじめは隅田川に向いていましたが、元禄5年の再建で南向きに、のちに西向き(現在)になり180度回ったことになります。
このコースは、昨年4月に開催されたものですが、写真の一部は、その後に撮影したものを使用しています。
by ken201407
| 2015-04-30 22:43
| 歴史散策