広重「名所江戸百景」 高輪から金杉橋まで
2014年 10月 23日
今年度前期の最終回は、都営浅草線「泉岳寺駅」から港区芝の「金杉橋」まで、途中のバス移動を除き、約5キロのコースでした。
今回の絵は、『第81景 高輪うしまち』、『第22景 廣尾ふる川』、『第79景 芝神明増上寺』、『第53景 増上寺塔赤羽根』、『第80景 金杉橋芝浦』の5枚です。
(絵のタイトルをクリックすると、絵と解説が表示されます。)
訪れたところは、高輪大木戸跡、願生寺・牛供養塔、亀塚・三田台公園、四の橋、芝神明宮、芝公園丸山、金杉橋でした。
泉岳寺駅A4出口の近くに、『高輪大木戸跡』があります。
これは、江戸市中の出入り口の街道警備の要衝として設けられたもので、道の両側に石垣を築き、間に柵や門が付いていたそうです。
明治になり道路拡張によって、海側の石塁だけが残され、史跡として国指定になりました。
また、伊能忠敬が東海道筋の測量に際して、ここを起点としたといわれています。
1枚目の絵、『第81景 高輪うしまち』は、この付近から、品川の海を望む風景を描いたものです。
いまでは、写真のように鉄道やビルなどが建ち、まったく海を見ることはできません。
牛町は俗称で、本来は車町と言われていたそうです。車町の町名は残っていませんが、町会・自治会名で残っています。
これは、願生寺(がんじょうじ)の牛供養塔です。
元文3年(1738)に牛屋七軒が牛霊を悼んで奉納したもので、現在の碑は、文政11年(1828)に再建されたものとのこと。
下段には、大正時代の牛屋の屋号である「牛鐡(うしてつ)」と彫られています。
三田三丁目から聖坂を登った高台は、昔は遙かに房総の山々を一望に見晴らす勝地であり、月見の名所であったことから、「月の岬」と呼ばれていたそうです。古地図に「月之見崎」と記されています。
この辺りは、上野沼田藩土岐家の下屋敷があったところで、港区が公園として整備しています。
公園の案内板によると、亀塚公園は「更級日記」に紹介された竹芝皇女の物語の遺跡といわれ、亀塚の伝説が残されているとのことです。
この辺りには、寺院が多く、また坂も多い。
『幽霊坂』は、寺院が並び、物寂しい坂であることからこの名前が付いたという説があります。
『魚籃坂』は、坂の途中に「魚籃寺」があることから付いた名前と言われています。
2枚目の絵は、『第22景 廣尾ふる川』です。
場所は、港区白銀3丁目の「四の橋」付近です。
いまは、川の上に首都高速が通り、視界がききません。
また、鰻屋も見当たりません。
ここから、バスで大門まで移動です。
3枚目の絵は『第79景 芝神明増上寺』です。
通りの両サイドはビルが建ち並びますが、当時のイメージは残っています。 写真の左奥の赤い門が増上寺の大門で、りそな銀行のビル裏手に芝神明宮があります。
現在は「芝大神宮」と称しています。今年で鎮座1009年です。
火消と相撲取りがからんだ「め組の喧嘩」の舞台となったところで、境内の狛犬は「め組」と彫られた台座にのっています。
増上寺の境内ではイベントがおこなわれており、大勢の人で込み合っていました。
山門の前で参拝し、芝公園へ。
東照宮の前を通り過ぎ、五重塔があったであろう場所の丸山に向かいました。
登り坂の途中で4枚目の絵、『第53景 増上寺塔赤羽根』の説明を聞きました。
絵の中央奥にある赤い幟は、有馬家の水天宮で、久留米から分祀し江戸藩邸内に祀ったものです。
この水天宮は、現在日本橋貝殻町に移転しており、安産の御利益があるとして、江戸時代から市民が信仰しています。
丸山の中腹からは、樹木がお生い茂り視界がききません。
最後の5枚目の絵は『第80景 金杉橋芝浦』です。現在の金杉橋は、首都高速の真下で、川向うはJRの線路でふさがれ、閉塞感のある場所です。ただ、屋根船や遊漁船が繋留されて、昔の名残を多少残しています。
写真は金杉橋から東京湾方面を捕らえましたが、JRの線路とビル群で視界がふさがれています。
時代の先端の新幹線と昔ながらの繋留された屋根船がこの地域を象徴しているようです。
ここで、今日のコースは無事終わりました。
前期のコースで廻った対象の絵は、119枚中53枚でした。(ブログで紹介したのは、途中からなのでわずか13枚でした)
後期は、11月から始まります。このブログで紹介していきます。
今回の絵は、『第81景 高輪うしまち』、『第22景 廣尾ふる川』、『第79景 芝神明増上寺』、『第53景 増上寺塔赤羽根』、『第80景 金杉橋芝浦』の5枚です。
(絵のタイトルをクリックすると、絵と解説が表示されます。)
訪れたところは、高輪大木戸跡、願生寺・牛供養塔、亀塚・三田台公園、四の橋、芝神明宮、芝公園丸山、金杉橋でした。
泉岳寺駅A4出口の近くに、『高輪大木戸跡』があります。
明治になり道路拡張によって、海側の石塁だけが残され、史跡として国指定になりました。
また、伊能忠敬が東海道筋の測量に際して、ここを起点としたといわれています。
1枚目の絵、『第81景 高輪うしまち』は、この付近から、品川の海を望む風景を描いたものです。
牛町は俗称で、本来は車町と言われていたそうです。車町の町名は残っていませんが、町会・自治会名で残っています。
元文3年(1738)に牛屋七軒が牛霊を悼んで奉納したもので、現在の碑は、文政11年(1828)に再建されたものとのこと。
下段には、大正時代の牛屋の屋号である「牛鐡(うしてつ)」と彫られています。
三田三丁目から聖坂を登った高台は、昔は遙かに房総の山々を一望に見晴らす勝地であり、月見の名所であったことから、「月の岬」と呼ばれていたそうです。古地図に「月之見崎」と記されています。
この辺りは、上野沼田藩土岐家の下屋敷があったところで、港区が公園として整備しています。
『幽霊坂』は、寺院が並び、物寂しい坂であることからこの名前が付いたという説があります。
『魚籃坂』は、坂の途中に「魚籃寺」があることから付いた名前と言われています。
2枚目の絵は、『第22景 廣尾ふる川』です。
場所は、港区白銀3丁目の「四の橋」付近です。
また、鰻屋も見当たりません。
ここから、バスで大門まで移動です。
3枚目の絵は『第79景 芝神明増上寺』です。
火消と相撲取りがからんだ「め組の喧嘩」の舞台となったところで、境内の狛犬は「め組」と彫られた台座にのっています。
増上寺の境内ではイベントがおこなわれており、大勢の人で込み合っていました。
山門の前で参拝し、芝公園へ。
東照宮の前を通り過ぎ、五重塔があったであろう場所の丸山に向かいました。
登り坂の途中で4枚目の絵、『第53景 増上寺塔赤羽根』の説明を聞きました。
絵の中央奥にある赤い幟は、有馬家の水天宮で、久留米から分祀し江戸藩邸内に祀ったものです。
この水天宮は、現在日本橋貝殻町に移転しており、安産の御利益があるとして、江戸時代から市民が信仰しています。
最後の5枚目の絵は『第80景 金杉橋芝浦』です。現在の金杉橋は、首都高速の真下で、川向うはJRの線路でふさがれ、閉塞感のある場所です。ただ、屋根船や遊漁船が繋留されて、昔の名残を多少残しています。
時代の先端の新幹線と昔ながらの繋留された屋根船がこの地域を象徴しているようです。
ここで、今日のコースは無事終わりました。
前期のコースで廻った対象の絵は、119枚中53枚でした。(ブログで紹介したのは、途中からなのでわずか13枚でした)
後期は、11月から始まります。このブログで紹介していきます。
by ken201407
| 2014-10-23 09:35
| 歴史散策